追手門コース 〜 小谷山(494m) 〜 清水谷コース
コース概念図 コース断面図
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2008年11月26日 (水曜日)快晴 メンバー:2名
歩行距離 8.1q/歩行時間 3時間45分 (休憩時間 2時間11分) 所要時間 5時間54分
《レポート画像》
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到着 - 出発 《ルートポイントのあらまし》
ギュウギュウ詰めを覚悟して大阪駅8時21分発の新快速に乗るが、意外にスンナリと同行のヒゲさん共々座席に着く事が出来一安心、下車予定の河毛駅に降りると空は快晴、気温18℃の駅前で浅井長政・お市の方に迎えられる

ここからは歩いても30分程度の距離だが記念に湖北町コミュニティバス“こはくちょうバス(小谷山線)”で日本五大山城の一つ小谷城址登山口まで移動する事にして、発車待ちの時間を利用して湖北町案内板で近江の要衝と言われた湖北町と小谷山の地形を改めて確かめて見る

10:43 可愛らしいバスは貸し切りのようで、運転手さんとの会話も弾むが僅か10分足らずで小谷城址口に着いてしまい、空車となって次の停留所へと走り去るバスを見送る
車道と分かれた登山道はいきなりの急坂から始まり
10:48 見晴らしのない雑木帯を5分程伝うと視界も開け
10:53 紅葉に彩られた車道に合流するので斜めに横切って追手道コースを辿ると右下に頂上まで2.3qの標柱が現れる
11:03 緩やかに続く見晴らしのない尾根筋を5分程辿ると小広く開けた真柄(まがら)峠に着くが、少し呼吸を整えるだけでそのまま通過する
11:10 さらに5分程快適な尾根道を伝うと右手に展望の開けた望笙(ぼうしょう)峠に着く
11:12 - 11:14 峠からは東西に展望があり、西には琵琶湖に浮かぶ竹生島と山本山が視界に入るが樹木に遮られてそれ以上の景観は望めない
一方東側は伊吹山のドッシリとした山容を中心に大らかな風景が目を楽しませてくれる
11:23 大らかな風景での感動が冷めないうちに10分程で金吾丸跡への分岐が迎えてくれるので、躊躇することなく勝手に足は右への階段に向かう
11:23 5分程で階段を上りきると小さな広場になったピークに着くが、金吾丸跡らしい遺構も案内も展望も何の変哲もないピークに「少し無駄足だったかな?」と思いながら左の一般道へ下る事になる
11:26 やや急な階段を一般道に下りきったところが番所跡のようだが、何故か舗装されているのが気になり周囲を見てみると右手の金吾丸跡を捲き登ってくる車道が目に入り納得する
どうやら車道はここが終点のようで道脇に建てられた小谷城跡案内図では、ここが小谷城址巡りのスタート地点として描かれている
11:30 番所跡を過ぎるとすぐ分岐が現れるが道標はない
先刻の案内図ではどちらを採っても変わらないようなので右の道を辿る事にする
11:34 やがて二つの道が合流すると御茶屋跡に到着、ここにも遺構らしいものはなく打たれた石柱が無ければ単なる広場にしか見えない
11:37 2〜3分もすれば山際に少し見える窪地、これが馬洗池跡のようだが今ではまったく水の気配も見る事が出来ない
11:39 少し足を進めると道脇に大きな石が目に着くと、傍には首据石の謂われが書かれた案内板があるのでこの石が首据石なのだろう
11:42 すぐに次の案内板が建てられた分岐に着く
案内板には右へ100m程入れば赤尾屋敷跡があると書かれているので一旦右への道をピストンして見る事に・・・・
11:45 案内板の通り、すぐに赤尾屋敷跡と彫られた石柱の打たれた小広場に着くがここにも遺構らしきものは目にする事も出来ないが、
11:47 一番奥まったところに浅井長政公自刃之地と彫られた石柱を見て、思わず29才の若さで自刃したという史実に改めて往時の厳しさを教えられ元の分岐まで戻る
11:53 - 11:57 程なく見事に紅葉した桜が視界一杯に広がる桜馬場に着くので、休憩を兼ねて束の間の散策を楽しむ
11:59 階段状の坂道を上がると主殿があったとされる大広間(千畳敷)跡が広がるが、案内板によると35eもの広さだと説明されている

広場の両脇から見事な彩りを競う紅葉鮮やかな黄葉が目に眩しい

12:03 奥に進むと一段高いところに本丸跡の石垣を見る事が出来て、やっと遺構らしき実物を実感する事になる
12:07 本丸跡を一通り散策して50m程上部に進むと中ノ丸跡の石標と石積が僅かな遺構を見せてくれる
12:09 すぐ近くに刀洗池跡の石標が打たれているが、見た目には池らしい窪地は見あたらないのでそのまま通り過ぎると
12:12 京極丸跡に着くが、案内板によると小谷城落城を早めた要因がこの京極丸の存在だったという事を知って、学生時代にもう少し歴史に興味を持っていたら・・・と今更ながらの反省 /(_ _;)
12:17 次にこぢんまりと仕切られた小丸跡を過ぎると主郭部の最も北側にある山王丸跡への野づら積みの石垣が待っているが
12:20 その位置に道標が打たれて大石垣への分岐がある事を教えてくれるので、ここでもピストンして実物を覗いて見る事にする
12:22 右手方向に続く少し荒れた道の先には山王丸の土塁と積み上げられた高さ5mの大石垣が素人目にも遺構である事が判る
12:26 - 13:00 小谷城の最上部に位置する詰めの丸で山王権現の祀られていたという山王丸跡に登り着いたところで昼食タイムとするが、広い山頂部は誰も姿を見る事が出来ず完全に貸し切り状態だ
13:01 食後のスタートは馬の背状の急な細尾根下りから鞍部に降り着く
13:04
鞍部では当時湖北にあった六つの有力寺院と連絡を蜜にするために置かれた出張所だったとされる六坊跡が迎えてくれるが、ここにも遺構らしきものを目にする事が出来ない
13:07 六坊跡を過ぎるとすぐ四つ辻の分岐が現れ左に清水谷/右に越前忍道・月所丸と書かれた道標が建てられているが、ここは無視して真っ直ぐ小谷山山頂へ向かう
13:08 分岐からは急な階段が続き、大嶽城があったという山頂まで560mの標識に見送られるが
13:20 急な登りが続く尾根筋も彩りを添える紅黄葉に癒されてノンビリ伝うので、
13:25 山頂までの15分程がほんの4〜5分だったように感じていると大嶽(おおづく)城の曲輪跡に登り着いたようだ
13:28 - 13:40 小谷山<別名:伊部山>(494m)山頂には大嶽城跡の遺構として土塁を確かめる事が出来る
また山頂には三等三角点(点名:大岳 標高:494.5m)が打たれているが、一帯は雑木に覆われているため展望はほとんど望めない
13:47 山頂からの復路は「大嶽・山崎丸コース」を下るか「清水谷コース」を下るかで少し迷うが、秀吉軍が京極丸へ攻め上がった時に通ったと言われる清水谷を歩いて見る事にして先程の分岐まで戻る途中、樹木が途切れると東側の展望が開けて長閑な近江盆地と大らかに横たわる伊吹山が視界に広がる
13:57 分岐に着くと六坊跡を左に見やって清水(きよみず)谷コースへの谷道を伝う
14:00 下り始めると背丈を越すササ原の細い道が暫く続くが2〜3分で緩やかな広い谷筋に変わる
14:05 程なく道脇に建つ土佐屋敷跡の石柱が目に付くが案内図には大野木屋敷と書かれているので帰宅後調べてみたところ、この屋敷の主が大野木土佐守と言う事だと判りこの疑問も氷解したのだが
14:08 さらに谷筋を3分下ると三田村屋敷跡の石柱が見える
案内図にも三田村屋敷と書かれているが、ここは三田村佐渡守が主だったことを考え合わせると石柱には佐渡屋敷跡とすべきでは無いのか・・と新たな疑問が残ってしまう
14:23 やがて20分近く下ると谷幅が狭くなってややV字状を呈し、道も中腹の斜面を横切るように変わる

なるほど!この谷筋では大軍で攻め上がる事は出来ないのであの信長をして攻略困難と攻めあぐねていたのであろうと推察してみる

14:28 5分も下れば谷相も穏やかになり、浅井亮政・久政・長政・お市の方・茶々の居所とされる御屋敷跡の石柱が立てられた広場に出る

ここまで大軍で押し寄せて、右手の谷を攻め上がれば京極丸に登り着くので浅井軍の分断に目を付けた秀吉の奇襲作戦が落城を早めたと言えるのだろう

14:32 御屋敷のすぐ南に隣接するように浅井氏の菩提寺だった徳勝寺跡の石柱が現れる
14:36 そして5分程で尾根上の番所跡へ伝う本道?の虎ヶ谷道が捲き上がっているので、私たちが朝伝った道ではなくこの道が本来の追手道ではないかとの説には説得力があってなかなか面白い

近くに浅井山城守の屋敷跡(=山城屋敷跡)もあったと案内板で紹介されている

14:43 5分少しでほぼ谷の出口に着くが、ここに姉川の合戦で信長の陣内深くまで進攻して討ち死にしたという勇将遠藤直経の屋敷跡(=遠藤屋敷跡)があったという案内板があるが、何故か山崎丸の案内図が描かれているので首を傾げながら谷を抜ける
14:45 - 16:04 谷が開けると小谷城戦国歴史資料館(\300)が迎えてくれるので、今更ながらの付け焼き刃だが立ち寄ってみる

少し賢くなった後は今日の復習を兼ねて小谷城跡清水谷絵図で歩いたコースを確かめてみる

16:30 少し勉強時間が長すぎたようで、外へ出てみるとすっかり陽が傾いてしまい、河毛駅までの舗装道路を辿ると後から小谷山が穏やかな表情で見送ってくれる
16:37 30分程歩くとJR河毛駅に着いて、16時47分の電車を長浜駅で新快速に乗り継ぎ無事帰阪してお待ち兼ねの反省会で締め括る
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